琉球舞踊の振りとして



十二世紀から十七世紀頃までに、沖縄各地の祭祀〔さいし〕でうたわれた古歌謡が、首里王府で編集されて『おもろさうし』全二十二巻に収められています。 その第九巻は「いろいろのこねりおもろ御双紙〔おんそうし〕」で、祭場で神女たちが踊る手の振りや体の動きが記されていて、琉球舞踊の原初的な姿を垣間見〔かいまみ〕ることができます。それは「二ておす二てこねる〔二手押す二手こねる〕」など、両手の振りが見えます。 これらの手が芸術的に再創造され表現されて、琉球舞踊の振りとして完成したといえましょう。 琉球舞踊の原初的な手は、「拝〔おが〕み手」「こねり手」「押〔お〕す手」といわれていますが、これは祭祀の世界で感謝や祈願の手が、舞台芸術として採用されて、琉球舞踊に発展しました。 これらの所作と祈りの姿勢を舞踊等に取り入れたのが、玉城朝薫〔たまぐすくちょうくん〕だといわれています。したがって玉城朝薫以前は、数十名からなる群舞を寺の境内等で演じて、冊封使を歓待したことが、冊封使録〔さっぽうしろく〕に記されています。 一七一九年尚敬王の冊封式典余興芸能から、首里城内の正殿と北殿の間に三間四方の特設舞台をつくり、三、四名による舞踊が演じられ、いよいよ芸術性を志向〔しこう〕する琉球舞踊の登場になっていきます。
 現在、私たちが観ることのできる琉球舞踊は古典舞踊、雑踊り(ゾウウドゥイ)、民俗舞踊、創作舞踊の4つに大別される。
 宮廷舞踊とも呼ばれる古典舞踊は、首里王府によって庇護、熟成された。中国からの使者である冊封使(サッポウシ)の前で踊られた「老人踊り」「若衆踊り」「女踊り」と薩摩の役人の前で主に踊られた「二才踊り」がある。芸能を外交政策の重要な柱として位置づけた王府は、踊り手を全て士族の男性エリートとし、「踊奉行」を置くなど歓待芸としての「宮廷舞踊」をより洗練させて行った。
 廃藩置県後、禄を失った役人舞踊家たちが芝居小屋で役者となり、庶民の生活や想いをテーマに革新的な舞踊を作り上げた。それが雑踊りである。
 琉球の島々や各地に継承されている民俗舞踊は今も祭祀舞踊としての趣を色濃く残し、戦後の舞踊家たちによる創作舞踊は、古代からの舞踊の伝統の要素を取り入れ、現代に生きる私たちの姿を写しとろうと今も創作されつづけている。

今日に伝わる琉球舞踊は、琉球王国時代の特に十八世紀から十九世紀中期頃までに、創作され練りあげられた踊りを頂点として、踊り継がれています。



 琉球王国時代には、新国王の認証式がその都度行われ、中国から皇帝の名代〔みょうだい〕すなわち冊封使〔さっぽうし〕が来島して、首里城正殿前で載冠の儀式等が挙行されました。
その儀式の後に、冊封使歓待の芸能が、城内の特設舞台で上演されました。
それらを宮廷舞踊(古典舞踊ともいう)と呼び、明治十二年に誕生した新生沖縄県から数年後に、那覇の芝居小屋で、宮廷舞踊(古典舞踊)を上演しながら、その様式と振りを大切に完全に消化して、庶民生活から題材をとって、創造されたのが雑踊〔ぞうおど〕りであります。 雑踊〔ぞうおど〕りとは、古典女踊りを真踊〔まおど〕りというのに対して、明治の娘舞〔アングヮーモーイ〕をそう呼んだといわれています。

 そして、昭和・平成に、多くの舞踊師匠等によって、古典舞踊や雑踊りをもとに、さらに新感覚を加えて、古典音楽や民謡等の新しい旋律を取り入れ、その上創作音楽をも駆使して、振り付けた創作舞踊がつくられました。 この創作舞踊もたびたび踊られ、練りあげられて琉球舞踊全体をバラエティーに富む芸能にし、豊かな内容に仕上げています。


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